もくれんの映画と読書日記

趣味のかたよった読書と映画鑑賞の日記です。

コミカルで下品なタランティーノのギャングたち「レザボアドッグス」

見る人を選ぶタランティーノ
どっちかというと見ない方だったのに、最近ゾンビ映画と共に面白さがわかってきた。

 

 

苦手な要素の1つだったものに、全然関係のない登場人物たちの無駄話ってのがある。
だいたいその時点で飽きるか寝てしまう。

 

この映画もいきなり冒頭から、ダイナ―でギャングたちのどうでもいいおしゃべりが続く。(マドンナのライクアバージンについての下品な持論。聞くところによると後でマドンナに怒られたらしい)

 

熱心にしゃべっているのはタランティーノ。しっかり出演してる。
あーだこーだ言いながら、黒ずくめのギャングたちはそろって出発。

 

歩き出した彼等の姿のプロローグにかぶさって来る曲が「リトル・グリーンバック」
かっこいい。
タランティーノまでかっこよく見える。

 

音楽の終わりとかぶさって本編が始まるのだが、いきなり車の中で血まみれギャングが1人苦しんでいる。なだめて励ましながら必死に隠れ家へと車を走らせる運転席のもう一人のギャング。

 

何がどうなっているのかわからない。
彼等は一応無事に隠れ家であり集合場所の倉庫に着くが、まだ誰も来ていない。
医者を呼んでくれとのたうちまわるギャングの出血は確かにひどい。

 

こいつ死ぬな
と予感する。
どうやら、彼は撃たれたらしい。
のたうち回りながら彼は言う。
「オレたちの中に裏切り者がいる。警察が待ち構えているなんておかしい!」

タランティーノはもうすでにどっかで死んだらしい。
笑ってしまった。

 

アクション映画だと思いきや、派手なアクションはない。舞台はほぼ倉庫の中。
登場人物は増えてきて、話はその都度展開する。
同時に彼等が集まり強盗を企てるまでのいきさつもわかってくる。

 

裏切り者の正体というのが、オチではない。
裏切り者はそこそこの時点で明かされ、話はそこからも進み、ドSの変態ギャングやらも出てきて、どうなるんだどうなるんだと、最後まで引っ張られる。

 

コメディ感もあり、ストーリーの面白さもあり、評価が高いのわかる。
いやいや面白かったです。
もっと早く見ればよかった。
お家時間がくれた下品で楽しいタランティーノ

 

 

 

今まで知ってる中で一番人間味のある「ジャンヌ・ダルク」

ずっと見たいと思っていたミラ・ジョボヴィッチの代表作の1つ。
もうずいぶん前の映画になるのだなあと、彼女の若さを見てつくづく実感。

 

 

ジャンヌ・ダルクは自分にとって英雄というイメージよりも、なぜか悲惨なイメージの方が強いので、あまり見たい種類の映画ではなかったが、ミラ・ジョボヴィッチのジャンヌ・ダルクはやっぱり見たい。

 

悲惨でトラウマになりそう、などの話も聞いたことあるので、覚悟はしていたが思ったよりもエンターテイメント色が強くて迫力があった。

 

神の声を聞いて、奇跡の戦いに挑んだジャンヌの人物像は普通かなり神格化されている。勇猛で冷静、人並はずれた特別な姿で描かれることが多いが、この映画のジャンヌは予想外の人間味あふれる設定だった。

 

とにかく常に怒ったり叫んだりしている。湧き出る恐怖心を必死で押さえているのが伝わってくる。不安な表情が多い。本当にこれでいいのだろうかという不安や戸惑いの感情が、若きミラ・ジョボヴィッチの顔にしょっちゅう浮かぶ。

 

何でそこまでやれるのかなあ、というこちらの疑問は、そりゃあ神の声を聞いたからでしょ、となるのだが、その神の声を聞いたという根本的な奇跡もこの映画ではひっくり返してしまう。

 

負けるとわかっていた戦いを勝ったという彼女の存在そのものが奇跡であることは事実だが、神の存在って、宗教って結局何だ?というスタンスにもっていってるような気がして、小気味よい。

 

テレビやなんかではなかなか放送できないシーンも確かに多かったけど、それほど悲惨な感じがしなかったのは、やはり戦うジャンヌの向こうに戦うアリスをみてしまうからだろうか。

 

 

戦闘シーンは、まだ銃ではなく剣で戦うため、手や首が飛んだり、カラスに死体を食われたりとなかなかのリアルグロテスクだけど、日本の戦国時代もリアルにやればあんな感じかも。

 

ジャンヌ・ダルクがここまで聖人化され有名になったのは、十代の少女であったということがまず一番の理由なのだろう。指揮したのがおっさんだったら、奇跡の戦いというだけで個人的な英雄としてはここまで残らなかったような気がする。

 

そういえば、島原の乱天草四郎も十代の少年だった。だから余計に有名になったんだ。映画ではジュリーがやってたな。
そういえばまた見たいなあ。

異能なアンソニー・ホプキンスを見ずにはいられない「ブレイン・ゲーム」

アンソニー・ホプキンスが異能の人物を演るとなれば、見ないでは気が済まない。

 

 

娘を病気で失い、妻とも別居中で失意の中で暮らしているアンソニー・ホプキンス演じるクランシー博士は、元同僚のジョーの訪問を受ける。

 

ジョーは刑事であり、彼はアナリストで医師のクランシー博士に事件の分析を依頼しにきたのだ。その事件とは、首の後ろを一突きにして殺す連続殺人事件。(まさに必殺仕事人の技)

 

被害者の共通点も無く、捜査に行き詰ったジョーがクランシー博士を頼ったわけは、彼が持つ特殊な能力だった。クランシー博士には未来のことが見えるのだ。

 

ジョーの熱意に負けて協力することになったクランシー博士。
しかしジョーの相棒キャサリンは、超能力に懐疑的。
とはいえ、さっそくその能力を発揮して被害者の見えない共通点を見つけだし、キャサリンの気持ちも変化していく。


順調に進んでいた捜査だったが、クランシー博士の態度が突然変わり、仕事を投げ出す。彼が見たものは、自分に向けてメッセージを送る、自分を遥かにしのぐ能力を持った超能力者の犯人の存在だった。
確かに「勝てるわけがない…」

 

超能力ものとしては珍しくないストーリーなのだが、やはりアンソニー・ホプキンスの存在感は上等の文鎮みたいに重さ抜群。

 

クランシー博士が頭の中で見る映像がこの映画の見せどころの1つ。
いきなり序盤で、初対面のキャサリンが血だらけになって目を見開いている顔のアップで、「おっ」とこちらは気持ちをつかまれる。
以後、キャサリンを見るたびに「この人死ぬのかな」と常に過り、思うつぼにハマっていく。

 

現実と頭の中の場面が入り乱れていく状況の映像は、なかなか面白い。
が、正直犯人を追い詰めていくまでの前半は緊迫感があるのだが、けっこう犯人はすぐに正体を現し、そこからは博士と犯人の能力の戦いとなっていく。

といっても、スキャナーズのような凄まじいものではなく、死についての哲学的な問答になったりして、そのあたりがスピード感とスリルを求めるとするならば、今ひとつ物足りない。

 

博士の持つ能力はとても残酷なものであることがわかる。
この映画のテーマとなっている死について永遠に繰り返された疑問は、いくら語ってもいくら考えても答えは出ない。
問われ続けている問題は今さらという気もする。


だからまあ単純なストーリーの映画だったなあという感想で治めようと思っていたが、
頭の片隅で、ずっと昔亡くなる前に朦朧とした意識の中で、笑ってくれたおじいちゃんの顔がふいに浮かんだ。

 

けっこうB級っぽい映画なんだけど、アンソニー・ホプキンスという上等な文鎮は、やっぱりずっしりと何かが心に重い。

 

 

 

 

 

 

出演者総勢7人のカルト的名作「CUBE」

邦画でリメイクされるということで、何十年かぶり?に見た。

 

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いったい幾つの時に見たのか、さっぱり覚えてないんだけど、大人であったことは間違いない。
どちらかというとワンパターンだったホラー映画の中で、この映画は衝撃だった。

 

すぐに内容を忘れる自分としては、異例といえるほどストーリー(脱出するだけなんだけど)を覚えている。
ラストの衝撃もなかなかだった。「え…!なんで?」という一瞬。

 

立方体の部屋の中、閉じ込められた7人の人物たち(1人は早々に死ぬ)。
壁や床や天井にドアがあるが、開けると隣には色違いの同じ部屋が広がっている。

 

隣の部屋に移動しようと試みると、そこには恐ろしく残酷な罠が仕掛けられている。
わけがわからないまま、それでも必死でこの状況から逃れるため工夫をこらして部屋から部屋へ移動するが、キリのない移動に彼等の精神状態は極限を迎え、次第に追い詰められていく――。

 

さまざまな映画やゲームに使用されて、今ではすっかりお馴染みになったあの罠(サイコロステーキになってしまうやつ)を始め、説明のつかないナンセンスなストーリーはホラー映画界に衝撃を与えたようだ。

 

昔のホラー映画は、年月がたって見直すと「え、こんな感じだっけ…」とテンション下がる場合も少なくないけど、この映画は改めてみると、まったく古びた感がない新鮮さ。

 

今ではさほどめずらしくなくなった残虐な罠なんだけど、息を飲んで見るという言葉がぴったりの緊迫感。

 

 

 

 

日本のリメイクは設定や道具立ては同じだが、基本的にオリジナルストーリーなんだとか。だろうな。正直、元の映画をそのままやるとR指定だ。刺激が強すぎる。感動したりするストーリーなんて基本的に無いも同然だし。

 

正式な続編もあったが、いまいちの評価だったみたいだ。
化物が出てくるわけでもなく、グロテスクが続くわけでもないのに、独特の怖さに包み込まれる要因の1つは、音楽がないことにもある。

 

そして見ているこちらの意識もキューブから出してもらえない。
回想シーンもないし、とにかく映像はキューブの中から出ることがない。
どこの誰かわからない彼等6人といっしょに90分間閉じ込められる。

 

因数分解素数デカルト座標など、聞いただけで意識が遠のく部屋番号の謎解きやパズル要素もたっぷり。
「希望があるから前に進める」みたいな哲学的問答のやりとりまで飛び交う異色のホラー。


後味の悪さも良いんだか悪いんだか。
やはり、今に至るカルト的名作という評価に、改めて納得。

 

 

 

 

 

笑えないパロディ「ゾンビ・サファリパーク」

ふざけた映画なのだと思ってみたら、全然そんなことはなかった。

 

 

設定は完全なジェラシック・パークのパロディ。
恐竜がいる離島のテーマパークではなく、ゾンビが飼われている離島のテーマパーク。

 

恐竜は見学するだけだが、ゾンビの場合は撃ち殺して楽しむ趣向。
当然ゲーム感覚で楽しむおバカたちもたくさんやって来る。

 

なぜこんなおバカたちの島が出来たのかというと、それには一応理由がある。
人類は増えまくったゾンビたちと壮絶な闘いを繰り広げた。それにより出た犠牲者はなんと20億人。

 

結果勝利した人類が、生き残ったゾンビを島に閉じ込め、そのままテーマパークにしてしまったという設定。

 

当然大切な人を殺された人々も多く、その恨みをはらすという意味で島を訪れる人も多い。主人公のメラニーも、最愛の父をゾンビに殺されたトラウマを直すため、気乗りしないながらも彼氏と共にゾンビツアーに参加する。

 

 

 

狂喜乱舞で撃ちまくるおバカ。
黙々と射撃にいそしむ人。
復讐、ストレス解消、娯楽、それぞれの思いで銃をぶっ放す参加者たち。
でもメラニーは撃つことができない。

 

つまりはそれがテーマで、見ているこっちも「それはイカンやろぉ」という気にさせられていく。こういう常識外れの状態になると、それにともなって必ず反対する人々も出てくる。

 

そして、その人たちによって仕組まれてしまったのが、管理システムの異常。
鎖でつながれ、壁で仕切られていたゾンビたちが、突如解き放たれた。

 

ここからはゾンビ映画の本領発揮。
始めはジェラシックパークを見ている気分だったのが、気が付くとバイオハザードを見ている気分になっていた。

 

さて、誰が生き残るのか?
予算がかかっていなさそうな割には、緊迫感もなかなかで、予想以上に面白かった。
ラストにメラニーが見つけてしまうこのテーマパークの衝撃の真実には、「それは絶対イカンやろぉぉ」という笑えない実体も。

 

単なるコメディではない、笑えない本格パロディはさすがのイギリス制作。
ふざけた設定だけど、決してふざけた印象を受けない見ごたえあるB級ホラーでした。

 

 

かつて本当にいた彼等へ「グラディエーター」

以前何かの特集で、発掘された古代ローマ時代の遺骨を調査するドキュメンタリーを見た。
墓地から発見された全身傷だらけの遺骨。すべて首をはねられ、その首といっしょに埋葬されていた。
彼等はいったい何者なのか。

調査分析の結果推察されたこと。
彼等はグラディエーターだったのではないか。

 

「本物のラッセル・クロウだ…」

 

 

ローマ帝国の皇帝から信頼を受けていた、ラッセル・クロウ演じる将軍マキシマス。しかし皇帝の死後、ザ・悪役の皇帝の息子コモドゥスに疎んじられる。

処刑寸前で逃げ出したマキシマスは、命からがら故郷に帰るが、待っていたのは焼き払われた村と妻子の遺体。

 

体力気力ともに限界を向かえ、野垂れ死にするところを奴隷商人に拾われる。そして剣闘士グラディエーターとして、再びローマに帰ってくることに。

 

復讐の一念で無敵のグラディエーターとして闘うマキシマス。コモドゥス側が送り出す敵たちを撃退していくマキシマスは、はじめは敵側を支持していた民衆の心を次第につかみ始める。

 

殺してしまうのは簡単。しかし民衆の指示を無視することができない新皇帝コモドゥスは、ジレンマに悩みながらも卑怯な手を次々にくりだして、見ているこっちが喜んでブーイングを連発できる展開を楽しませてくれる。

 

勧善懲悪でわかりやすいストーリーでありながら、残虐な場面も多いということで確か子供はダメだったような気がするが。剣闘士というその存在自体が残虐ということもあるだろう。

 

昔から殺し合いや処刑には見物人が押し寄せるのはどこの国でも同じだが、コロセウムに詰めかけた民衆たちも、きっと自分たちが愚かであることをわかっている。

 

マキシマスが「楽しいか!これが楽しいか!?」と観客に向かって挑発するが、一瞬の静寂の後、彼等はマキシマスに声援を浴びせ、マキシマスを戸惑わせる。
民衆は果てしなく愚かだ。けれど強い。皇帝を苦しめるほど強い。

 

 

 

ラッセル・クロウはじめ、キャラ達も演じる役者さんたちも濃い。
知らなかったのだが、コモドゥスはあのジョーカーを演じたホアキン・フェニックス
うまいはずだ。ほんと狂気がほとばしってたもん。

 

しかもコモドゥスは実在の人物だそうで、これも驚き。
ローマの皇帝の名前なんかよう知らんもんなあ。徳川将軍の名さえ全員知らんのに。

 

発掘された墓地に横たわる本物のグラディエーターの中に、1人だけはるばる中東からやって来た戦士がいたそうだ。奴隷として売られてきたのか、何かの理由で流れついてきたのか。コロセウムの中で、彼は民衆の声援をどんなふうに受け止めていたのだろう。

 

 

キャシー・ベイツの女優力がすごい「黙秘」

スティーブン・キング原作の映画の中で、必ずといっていいほど上位に挙がるのが「ミザリー」。確かにあのミザリーの存在は壮絶怖い。

そのミザリーを演じ、アカデミー賞主演女優賞を受賞したキャシー・ベイツスティーブン・キングが捧げたと言われている小説がある。

それを映画化したのが「黙秘」
主演はもちろんキャシー・ベイツ

 

 

 

冒頭、いきなり階段から転げ落ちた瀕死の老婆に重いのし棒をふりかざす、キャシー・ベイツ演じるドロレスの姿から始まる。訪ねてきた郵便配達人によって寸でのところで阻止されるが、老婆はすでに息絶えていた。

 

場面は変わって、ニューヨーク。ジャーナリストのセリーナに届いた突然の知らせ。母が人を殺した容疑で捕まった。

 

久しぶりに故郷の島に帰ったセリーナ。しかし再会した母娘の態度はぎこちない。
亡くなったのは、ドロレスが20年間メイドとして使えてきた女主人だった。
「自分は殺していない」ときっぱりと断言するドロレス。
にもかかわらず、詳しい事情を語ろうとしない。

 

映画は始終、この親子の皮肉や嫌味を含んだやりとりを中心に展開する。
何度もブチ切れるセリーナ。このどうしようもない溝の理由が、ストーリーが進んでいくうちに徐々に明かされていく。

 

すべては20年前に起こった父親の不審死だった。
その時も、ドロレスは「殺していない」と言い切っていた。

 

現在の疲れ切った母娘の様子と、回想の中の若くて元気な2人の様子が交互に現れる形で映画は進んでいく。まるで幻や幽霊を見るように、ドロレスの目の前で過去の映像に突入していく流れは、独特で幻想的だ。
日食という背景がまた一段と幻想的な雰囲気をかもしだしている。

 

セリーナが断片的に覚えていた記憶、忘れていたおぞましい記憶が次第につながっていく。
やがて明かされるドロレスの告白は、セリーナの心にも、見ているこちらにも衝撃を与えていく。

 

 

 

やはり、ミザリー同様キャシー・ベイツの演技は圧巻。
秘密を抱えてひたすら歳月を耐えて生きた女性の存在を、迫力を持ってこちらに投げかけてくる。

物語の中心になっているのは、母親として妻としての存在と立場。
今より少し以前のこの時代。
女性が今より生きにくかった時代。
けれど、この重いテーマは今でも根本的には何も解決していないと感じてしまう。

 

母親が子供を守るのは当然のこと。
しかしそこに打算は働かないだろうか。
自分の名誉よりも命よりも、子供の名誉や命の方を尊重できるだろうか。

 

嫌われたくない。
かっこいい母親でいたい。
自分がひどいめにあうのは嫌だ。
今目をつぶっていれば、そのうちきっとなんとかなる――。

 

ドロレスはストレートな性格だ。
裏表のない分、子供のセリーヌにも全力で向き合っていく。
それがいいことなのかどうかはわからない。
もっと何かやり方があったんじゃないかと思ったりもする。

 

重いテーマの人間ドラマがズシーンと来る映画だが、ミステリーとしてもなかなか意表を突く作品。

 

それにしても、口コミで見たとおり確かに邦題の「黙秘」はどうなん?て感じ。
原題は「ドロレス・クレイボーン」だから、まあ変えるのはいいとしても。
だってドロレスは、そこまで言うほどかたくなに黙秘してるわけじゃないし。
まわりが聞く耳持たなかったんじゃないのぉって気がしなくもない。
唯一聞いてくれたのが――

この映画をまだ見ていない方たちのために、そこのところは「黙秘」