もくれんの映画と読書日記

趣味のかたよった読書と映画鑑賞の日記です。

時代物怪談が怖いという長話と「数えずの井戸」

古典的な日本の怪談が怖い。
幼い頃、怖い話をせがんだ姉弟に父親が話したのはいきなりの四谷怪談だった。
内容どうこうよりも、お岩さんの怖さは壮絶だった。

 

加えて、じいちゃんばあちゃんの家のテレビでしょっちゅうかかっていた怪談ドラマも凄かった。毎回違うストーリーだったのだが、記憶に残っているのはほぼ時代物であったこと。

 

いったい何のドラマだったのか今だにわからないが、小泉八雲の怪談みたいなものだったのかな。幼いながらに怖い話は好きだったのでついつい見てしまっていたが、女の人が夜中に目を覚ますと側に死んだ坊さんが座っている場面を見てトラウマが決定的となった。

 

以後、大人になるまで四谷怪談はもちろんのこと、牡丹灯籠、耳なし芳一など時代もの怪談はすべて怖かった。

 

夜中に目覚めて枕元に耳なし芳一が座っていたらおそらくショック死する。(耳なし芳一は幽霊じゃなく被害者なんだけど)

 

しかしその中で唯一怖さを感じなかったのが、皿屋敷だ。
井戸からゆらりと出てきて、「一枚…二枚…」と皿を数える。一枚足りないと何度も数えなおす。

 

なんて辛気臭い幽霊なんだ。
と子供ながらに思った。

思えば四谷怪談のお岩さんも牡丹灯籠のお露さんも攻撃的だ。恨みのパワーで相手を破滅に追いやる。皿屋敷のお菊さんにそれはない。自分を死に追いやった本人に直接かかわることなく、井戸で皿を数えて嘆いている姿に子供の頃の自分は怖さを感じなかった。

 

しかし考えてみれば、皿屋敷のストーリーをちゃんと認識していないのではないかと気づいた。時代物の怪談は歌舞伎や落語などから広まり語りつがれていく場合が多い。実際にあった事件や史実を繋ぎ合わせたりアレンジしたりしているので、元になった史実なんかはよくわらない。

 

皿屋敷は特に日本各地に似た伝承があるようだ。有名なのは播州皿屋敷と番長皿屋敷だが、この二つも設定からして違っている。

 

お皿も紛失したとか割ったとか、いろいろなバージョンがあって、お菊さんの身分も存在も確固としたものが存在しないような感じだ。

 

 

 

て、ことで異常に長い前振りのあとで、京極バージョンの皿屋敷の話。
とはいえ、時代物怪談トラウマの自分にとっては京極ファンであってもこのシリーズは長きにわたって手が出せなかった。

 

まだ怖いのだ。
嗤う伊右衛門面白いよ」と友達に言われても、四谷怪談なんてとんでもない!という感じ。

 

しかし先日「数えずの井戸って家にある?」と娘からのLINE。

「無いけど、何で?」
「面白いって友達が言うてたから読んでみよかなと思って」
という会話があり、これを機会に自分も読んでみるか、と挑んだ次第。

 

で、スバっといってしまうと〝怖くない〟
これは怪談ではない。

 

京極ワールドに取り込まれた怪談の登場人物たちの人間ドラマといった感じ。
主要人物であるお菊さんや青山播磨を始め、項目ごとにそれぞれ登場人物たちの一人称で語られる。

 

しかもどいつもこいつも濃いったら!
皿屋敷の単純なストーリーをどれほど膨らませればあの分厚さになるのかと思っていたら、芝居では表現できないそれぞれのゆがんだ心象風景が次から次へと押し寄せて圧倒される。

 

それぞれがみんなどっかおかしい。
生気を感じないヤツやら、おまえ生気の持ち様を間違っているぞというやつら、そろいもそろってみんなことごとく短調なのだ。

 

少しずつ崩れていきながら進んでいく事態に、読む手が止まらない。

 

一枚…二枚…の怪談的展開を期待している方にはおすすめしない。
京極時代怪談は、百物語シリーズの一端でもあるので。


しかしラストに徳次郎の口から語られる凄惨極まりない場面は、変に想像力を刺激し、ストレートに描かれるより数段怖かった。

 

恐るべし。皿屋敷

 

後はいよいよ「笑う伊右衛門」に挑むときだ。
実は「覘き小平次」はずっと前に読んだことがあるのだ。知らない人だったので。

 

時代物怪談が怖いのは変わらないだろうが、怖いイコール嫌いではないというのがほんとのところ。
小泉八雲の怪談なんか何回読んだことか……(*^。^*)