もくれんの映画と読書日記

趣味のかたよった読書と映画鑑賞の日記です。

歌わない踊らない2時間無いインド映画「インド・オブ・ザ・デッド」

前からずーと気になっていたゾンビ映画、ようやく見ました。

 

インド・オブ・ザ・デッド [DVD]

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  • サイフ・アリー・カーン
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インド映画のネックは恐ろしく長い上映時間という点だが、これは2時間無いということで、昼飯食いながら見たんだけど、昼飯食いながら見るものではなかった。


ゾンビ映画のグロ度は幅広く、顔のメイクと変な歩き方だけというのから、内臓リアル系までいろいろあるが、こちらなかなかのものだった。でも回数は多くない。

 

基本コメディなので、ゾンビそのものよりもコメディ映画として笑える。しかも、インド映画にしてもめずらしく、ほぼ歌って踊る場面が無い!ゾンビが歌って踊るとマイケルジャクソンになってしまうしなあ。

 

でもそれも面白いのではと思ったりもするが。なんせ映画の中に、「アレだな」と思わせるゾンビ映画のパロディがけっこう入っている。それがまた楽しい。

 

ストーリーは、3人の若者(ひたすらチャラい・振られてヤサグレ・プレゼンを控えている真面目男)がリゾート地ゴアに赴く。その離れ小島で催されるというロシアマフィア開催のドラッグパーティーに誘われるが、そのドラッグが原因で大勢の人間がゾンビ化してしまう。

 

彼らは金がなくてドラッグが買えなかったために、命拾いをするが、そのゾンビたちに追われるはめになり逃げ惑うことに――。

 

キャラ設定はいかにもコメディという感じなのだけど、欧米の下ネタ連発の会話よりは個人的にはこちらの方が性に合う。もちろん下世話な話ばっかりしているいい加減な奴だけど、なんか変にかわいい。

 

翻訳がうまいのかな。
逃げる途中の道端でボロい祠みたいなの見つけて、一人が大急ぎで手を合わせるんだけど、「神さまほんとにいるのかよ」というのではなく、「神様、そこにいます?」っていうのがなんかかわいい。

 

そんな感じのどうでもいいようなちょっとした表現が妙に気に入った。ボートの上で何するでもなくジーとしているおねーちゃんゾンビもなんか愛らしい。(近づくと襲われるけど)

 

また、生き残ったロシアンマフィアのキャラがゾンビランドカーボーイハットのおっさんを彷彿とさせるが、こちらは髪を染めて肌を白くした実はインド人という設定がふざけていて良い。

 

「なんやそれ~(*'▽')」という突っ込みどころとご都合主義は満載だけど、ゆるーいコメディとして単純明快に楽しかった。

 

1つ驚いたのは、インド語で字幕日本語という認識で見ていたのだけど、途中で気づいた。彼らは英語で話していた。びっくりしたけど、英語だと気づいてからは欧米の映画よりも聞き取りやすかった。

 

ロシア語で話す男に、「英語でしゃべってくれない?」「なまってる」とか言ってる全員インド人ていうのも、これもまた洒落てる。

 

 

 

 

 

 

冒険ものみたいな題名の山田流で描かれた地味な時代の個性派キャラ「室町少年倶楽部」

京都で言う〝戦前〟と〝戦後〟は太平洋戦争以外にもあり、それは「応仁の乱」というのはどっかで聞いた話だが、それほど京都という場所をめちゃくちゃにした京都最大の戦乱の1つ。

 

とはいえ歴史好きでも、どんな戦いだったかというと意外と説明しにくい複雑で首尾一貫してない戦いのような気がするが、まさかそんな発端を教えてくれる内容だとは、初めてこの本と出合った時には思いもしなかった。

 

 

山田風太郎の伝奇ものが好きなので、これもそんな感じなんだと軽い気持ちで読んだ。なんせ表紙に鎧を着たインコみたいなやつが描かれているんだから、そう思うでしょ。少年探偵風の室町版伝奇冒険物なのかな…と。

 

これはれっきとした歴史小説、といっても山田風太郎ワールド全快で、荒唐無稽とエロさも備えた、少年探偵の要素など微塵もない内容。しかし、登場人物たちが実在の人物であり、歴史的事実は変えられていないので、歴史の流れはすごくよくわかる。

 

歴史的事実を変えないというのは、とても大切な要素だと思っている。それをふまえて描かないと、何もかも変えてしまうのは歴史人物の生きた人生を冒涜しているような気になる。

 

それが小説といってしまえばそうなんだろうけど。でもそれを読んで、感動しました!こんな人だったんだ!という感想を聞くと、ほっとけばいいと思いながらもなんか複雑。

 

それはそれとして、この本を再読しようとしたきっかけは、室町時代や足利将軍の時代というものが頭の中でぼんやりとし始めているというのもあった。

 

せいぜい知っているのは金閣寺をおつくりになった足利義満までっていうのがけっこう一般的。じゃあ銀閣寺は誰だっけ、というのに繋がる。確か足利義政。てことで、この話はその足利義政の話で、題名の中心的少年で描かれているのが彼だ。

 

幼くして将軍を継ぐことを強いられ、そして結果的に政治に背を向けていくまでの過程を、同じく少年少女たちであり、幼馴染でありながら後に複雑な関係になっていく仲間たちを絡めて描いている。

 

銀閣寺創建など、文化的な遺産を残したものの、財政は破綻し政治的にも混乱を極めた足利義政政権。また、悪女としてその名を歴史にとどろかせている日野登美子。その辺を考えると、彼らは室町時代を代表する人物たちと言えるかもしれない。

 

とはいえ、再読して確認したくなるほど、足利将軍の時代というのに触れることが少ない。戦国時代が派手すぎるので、身内の対立や大名同志の争いが激しいこの時代は面白味がないのだろうが、鎌倉殿を例に見るように見方によっては面白いんじゃないかなと思う。

 

この本には二本収録されていて、もう一本は義政の父である足利義教の話で、この人物のことを初めて知ったのはこの本だったのだけど、こんな面白い人がいたんだと驚嘆したことを覚えている。

 

面白いというのに語弊があるくらい強権将軍なのだけど、後の義政の時代を考えると、ある程度強権でなければこの時代を抑え込むことはできなかったのではないかという気がしてくる。鎌倉殿の義時なども然りだったのでは。

 

もう一つ面白い面が、義教は恐怖政治と恐れられるほど、意に添わぬ側近をバスバスと処罰処分していったことでも有名で、比叡山を残虐に焼き討ちしたりと、その後に現れる超有名歴史人物ととてもよく似ている。

 

この人物は義教のファンだったという話も聞いたことがあり、それを知って一段と興味を持った。

 

近年再評価されている足利義教という人物の大荒れ政治を楽しめ、彼がもっと生きていたら、その後の少年倶楽部は平和な人生を送れたのでは、そして京都を焼き尽くす応仁の乱はなかったのでは、などという想像力を掻き立ててくれる興味深い二本立てだ。

 

 

 

 

「ラリー スマホの中に棲むモノ」はいろいろと辛辣な子育てホラー

Netflixで配信されていたので、さっそく見ました。
どっちかっていうと、「スケアリーストーリーズ」の中の1つに入っていそうな物語。

 

 

スマホの中に棲んでいる友達がほしい孤独な化物。
そいつに目をつけられたのが自閉症の少年。この子がまた美形ったら!
少年をいじめる悪ガキ。この子がまた、こ憎たらしい面構えったら!

少年オリヴァーをスマホの中に連れて行こうと画策する化け物だが、それを邪魔するパパママにまで魔の手が伸びて――

 

わかりやすく目新しい設定は何もない。激しい驚かしやグロさのホラーを期待して見る人は肩透かしをくらうだろう。

 

とはいえ、最後まで読んではいけないラリーの物語アプリの設定や、深夜の駐車場での不気味な雰囲気はけっこう惹きこんでくれる。退屈はしない。

 

オリヴァーはスマホを介してしか話ができない子なので、現代のスマホ狂いの世の中への風刺的部分が主なテーマなのかなと思ったりしたが、意外と主張したいのはパパとママの方なのかなあ、とも。

 

オリヴァーがバイロンという友達を無くしたのは、どうやらママ友どうしのゴタゴタにあるようだが、あまり詳しくは語られていない。

 

語られてはいないが、ママの発言やかつてのママの言動が、今のオリヴァーの現状に影響を与えているように思える。というか、そういう感じに描かれている。

 

パパもママにまかせきりで、ママの癇癪を疎ましく思っている。
だからといって、パパもママもオリヴァーのことをとても愛しているし、必死で彼を守ろうとする。

 

何かがかみ合っていないのだ。
この映画をみていて、かつて幼稚園のママ友たちの間で起こったいろんないざこざが浮かんだ。壮絶にもめまくって結局幼稚園をやめてしまった子も出た事件もあった。

 

そんなことは極端な出来事ではあるけれど、自分のちょっとした言動は、子供にとってはホラーだと思う。子供にとって都合のいい嘘ではなく、自分にとって都合のいい嘘をついてしまうものだ。

 

それは虐待ではなく、自分も楽しみたいし、しんどい思いしたくないという、つまりは自分本位、自分優先のちょっとした傲慢。

 

自分も過去に戻って、「すまぬ」と子供に頭を下げたいことはいっぱいある。
だからこそ、この映画のラストは壮絶悲惨。

 

ありふれたストーリー展開に隠された、ありふれた子育てへの辛辣な皮肉。

ところで、この映画みていて、いろんな映画の場面思い浮かんだんだけど。ラリーのフォルムとか、彼が手を差し伸べる場面とか、我らが日本のホラーヒーロー貞子なんかも。偶然なのかな。

 

 

 

 

一番近未来なSFかも「ミッション8ミニッツ」

始め「ハッピーデスデイ」と「トレインミッション」を合体させたようなSFかなと思って見ていたが、話しはなかなか複雑だった。

 

 

いきなり電車の中で目覚めた、というより我に返った男に、目の前に座っていた女性は「助言をありがとう」とほほ笑む。

 

何のことやらさっぱりわからない男。しかも自分がもっていた身分証はまったく知らない人物だった。

 

混乱を極めて電車の中を歩き回るが、そのうち電車は爆音と共に炎に包まれる。
目覚めると、今度は狭い操縦席のような場所で座っている。目の前のモニターには軍関係者らしい女性が写っており、彼女に記憶を徐々に呼び覚ますように誘導される。

 

彼は自分がアフガニスタンの戦場にいたスティーブン大尉であることを思い出す。自分がどうなったのか知ろうとするが、モニターの女性はさっき体験した列車内でのことを執拗に聞く。

 

それよりも自分はどうなって――という間もなく、スティーブンの意識はまたもや列車の中へ。そして再び目の前の女性が言う。「助言をありがとう」

 

再び繰り返されるさっきと同じ時間と場面。そしてまたも巻き込まれた爆発とともに、操縦席に返ったスティーブン。パニック状態のようになるスティーブンに、モニターの女性は信じられないことを告げる。

 

爆発はテロにより本当に起きたことで、乗客は全員死亡。スティーブンはその乗客の一人が残した死亡するまでの8分間の記憶と同期し、犯人を見つけるのが役目。これは軍のミッションなのだと。

 

そこから繰り返される怒涛のような8分間の記憶の連続は、スピーディーで面白い。犯人を捜していく過程と伏線はミステリーで、SFとしての派手さはないが設定はまさにSF。

 

話の展開上、結果スティーブンは悲しい運命をたどるのだろうなあと予想はつくが、話は意外な方向へ。SFを宇宙やエイリアンではなく、脳というものを中心に据えたことで、すごく不思議な世界観になっている。

 

確かに脳の中はまだまだ不思議がいっぱいだし、自分たちが宇宙とどう繋がり、どんな力を秘めているのかもわからない。この映画のラストは正直ちょっとわかりにくいが、わからなくて当然という気もする。

 

脳や記憶をテーマにした映画はいろいろとあるが、この映画がなんとなく一番近未来的な気がした。私たちがとんでもないことと考えていることは、脳にとっては実は何でもないことなのかもしれない。

 

とか、そんなことを考えているのも脳なんだけど。じゃあ意識と脳は違うのかっていう、もうそうなるとオカルトの世界になりますなあ。とりあえず私たちは頭の中にSFを持っているということで、まとめましょう。

 

オカルトで思いだしたけど、モニターの中の女性は「死霊館」のウォーレン博士。そうでした、脳は死霊も見れるのでした。

 

 

 

つい聞き入ってしまい結果見入ってしまった映画「12人の優しい日本人」

正直、三谷幸喜の映画はほとんど見たことがなかった。
ドラマはほぼ全部楽しませてもらっているが。
きっとそういう人少なくないだろう。

 

 

家族がこの映画をDVDで見始めたその同じ部屋で、自分はパソコンに向かって違うことをしていた。
映画をBGMにしてしまうという申し訳ないクセは、幼少期、テレビ垂れ流し祖父母の家に出入りしていた時から身に付いたものの1つだ。

 

見る気のない映画に限るけど。
この映画も、三谷さんには申し訳ないけど見る気なかった。
というのも、この映画は1950年代のハリウッド映画「12人の怒れる男」のパロディ・オマージュ作品であるということで、まだそちらの方を見ていなかったからだ。
やはり見てから挑みたい。

 

 

サスペンス映画の名作として知られているこの映画は、ほぼ一室で展開されていく密室劇で、今では似たようなものも多くあるが、当時は斬新だったのだろう。

 

ある1つの事件を審議することになった陪審員たちの議論だけで構成されている内容。名前を含め、彼ら自身のことは何も語られず始まっていくのだが、議論が進むにつれそれぞれの特徴や性格など個性があらわになっていく。

 

三谷作品の方も、基本的な設定はほぼ同じ。この作品も1991年の作品ということで、そもそも陪審員制度が日本ではまだなかった頃の話。

 

ある殺人事件を論議するために集まった12人は、とりあえずとっとと済ませて帰りたいということで、早々に「無罪」という結論を全員一致で出し帰り支度を始める。しかし、その中で一人の男が「もう少し議論しませんか」と提案を出したことから、その後延々続く白熱議論が始まった。

 

だんだんと聞き流しから、聞き入る状態になってしまったのは、まず一室ということで画面をそんなに見なくてもよかったことがある。登場人物たちも始めからどこの誰だかわからず、顔の確認をする必要もない。

 

ストーリーは、彼らが事件をもう一度しっかり見直していくことによって、さまざまな見方や意見が飛び交いだす。私情を絡めてくる者や、すっとぼけたことばかり言う者、普段議論に馴れていない一般人の彼らの戸惑いや思考のやりとりが絶妙に面白い。
次第に彼ら自身の個性があぶり出されていく。

 

すっかりパソコンの手は止まり、テレビの方を向いていた。
中心になる人物は相島一之。鎌倉殿で運慶の役、新選組では新見錦を演られていたあの方です。

 

途中でむくれ始めるおっさんに鎌倉殿の善治さん。なんと豊悦も出てる。魅せる方ばかりなので、これは惹きこまれるわ。
ということで、しっかりと最後まで見入りました。

 

この映画は「無罪から有罪の可能性に向かって審議されていく」のに対し、元の映画の方は「有罪から無罪の可能性を探っていく」内容で、まったく逆の方向から始まるらしい。

 

優しい日本人の方は、事件そのものよりも陪審員の人そのものを描いている人間ドラマのように思えるが、元映画の方はどうなのだろう。サスペンスということで事件そのものをメインにしているのだろうか。
これは見たくなりますな。

 

うちの旦那はコロンボが好きなので、けっこうBGMになることが多いが、見入ってしまったことは一度もない。(最初からちゃんと見たことはあります)
面白くないわけではないのだけど、結局始まりを見逃すと、もうわけわかんなくなる。それがまあ普通で。
言葉で聞かせる魅力が最大限に発揮される密室劇の所以だ。

 

 

 

 

新しいタイプの読者への挑戦「ポピーのためにできること」

分厚い文庫を手に取って「ヒマかかりそうだな」と思ったけど、杞憂に終わる。
あっという間に読めた。

 

 

もちろん面白いというのが第一なのだが、この小説はすべてがメールのテキストや新聞記事、関係者の供述などの資料から成り立っているので、行間が多い!というのも大きい。

 

まずはさまざまな登場人物たちが、それぞれいろいろな相手にメールを送っているので、いきなり混乱する。最初から登場人物表で確認しても、まだよくわからない。

 

でもあまり大したことは言っていないので、なんとなく流しておくと、言葉の使い方や内容などから、それぞれの人物が浮かび上がってくる。

 

地元の名士、マーティン・ヘイワードとその家族は、アマチュア劇団を主宰している。その劇団員とそれに関わってくる人々。彼らの間でやりとりされる話は、芝居のことや日常――。

 

ひととおり、おおまかな人物たちがそろったところで、マーティンによって重大な出来事が知らされる。
彼の孫の2歳になるポピーが難病を患っていること。

 

高額な治療費を捻出するために、劇団員たちは募金活動などに動き始めるが――。

 

実はこの物語は、ある1つの殺人事件の関係資料なのだが、いったい誰が殺されるのか、犯人は誰なのか、動機は?などいっさいわからない状態で進んでいくのが、新鮮で面白い。

 

この資料を読んでいるのは読者だけではなく、弁護士に真相を解いてみるよう言われた男女の若者2人で、ときどき彼らの意見交換と弁護士のヒントが出てくる。

 

まさにこれは推理小説の定番、読者への挑戦スタイル。
ある意味古典的なスタイルかもしれない。

 

しかしメールやチャットなどのテキストだけで、事件の展開や人物どうしの繋がりがわかってくるのは、まさにスマホのやりとりが証拠になる現代の事件の捜査と通ずる。

 

おおむね本音をぶちまけている人、人によって態度や言葉が変わる人、軽い内容ばかりを連ねている人、そしてメール中には出てくるのにメールそのものに一切参加していない人物など、どいつもこいつも怪しくて、嘘と本当がまじりあって非常にややこしいけど、非常に面白い。

 

誰が殺されてもおかしくないし、誰が犯人であってもおかしくない。動機もあれやこれやと浮かぶ。

 

テキスト上のやりとりは、誤解を招いたり気持ちが伝わりにくいというけれど、果たしてどうだろうか。これを電話に置き換えたらと考えてみたが、ここに感情と声と時間が加わると、お芝居になる。

 

そこで思い出す。彼らは全員劇団員だった。逆に彼らにとっては声を出すよりテキストだけの方が、正体が出やすいのかもしれない。

 

後半、弁護士の先生が出した問題
「殺されたのは誰か」
「犯人は誰か」
そして
「○○なのは誰か」
最後の質問だけは、テキストだけでは確かにわからない。

見たいのはここ!「美女と野獣」と「シンデレラ」

お話も知ってるし、アニメ版も見たし、ディズニーアニメの実写版で求めるものは驚きとスッキリ感。
そしてみたい場面は決まっている!

 

 

美女と野獣の場合は、まずやはりディナーの場面。魔法に掛けられて日用品にされてしまった家臣たちが歌って踊るあの楽しさ満載のシーンは、アニメそのままにディズニーならではのテンポと華やかさ。

 

もう一つは、いうまでもなくベルと野獣のダンスシーン。豪華絢爛なシーンではあるがアニメだからこそあの描写に驚いたというのもある。なのでこの場面のポイントは、「アニメとおんなじだあ~♡」というところだろう。

 

 

シンデレラの場合は、見たいのはここ!と断言できる。美女と野獣とは逆に、アニメだからこそ描けたシンデレラ変身のシーンは、実写化を目の当たりにして「ふぇ~♡」と感嘆の声を発した。

 

なーんにも考えたくないときに見る映画としては最高です。エマ・ワトソンはかわいい感じだけど、リリー・ジェームズは美人さ炸裂しながらもかわいさも合わせもっている人なので、シンデレラにぴったりだ。

 

それにしても欧米のドレスは、どれも胸強調がすごい。歴史的な文化の違いで見せると恥ずかしい部分がアジアと違うので、いやらしさは感じないがそれでも目が釘付けになる。


欧米では歴史的にも胸を豊かに見せる下着は、かなり昔から発達していたみたいだ。そりゃそうだろうな、みんながでかいわけじゃないものな。

 

男女平等とはいえ、欧米は今でもデコルテを見せたり、胸の谷間を見せるデザインなどセクシーさを出す服を平気で職場で着ている。

先日読んだ本に、欧米では男性は男性らしくを強調し、女性は女性らしくを強調するのがあたりまえで、セクシーな服や筋肉ムキムキ感を際立たせる服を職場で着るのは決してタブーでないと書いてあった。

 

見た目とは別の部分、キャリアや条件などは容赦のない男女平等を求められているのだ。

 

なるほど。映画の中の女性たちは確かに、日本の職場で着たら終わりだなというような服装で仕事をしている。同じ服装をするのが平等ではないという考え方。

 

どっちがいいとか悪いとかではなく、それは長い歴史の中で培われてきたことだし、日本の着物は胸ぎっちり押さえて女性らしさは別の部分で表現していたから、それは文化の違いというものだろう。

 

たとえば平安のお姫様たちは常に顔を隠しているので、男たちは香りや重ねる着物の色のセンスで判断し、好みのタイプを見分ける基準の1つであったらしい。一般人にはあてはまらないだろうけど。

今の日本の女性たちを海外の男性が見ると、男女の見分けがつかないくらい同じ格好らしい。でもそれって服装の問題というより体型もあるのでは?

 

男が細すぎる。
女は細くても女性らしい体のラインがあるが、男はただの棒きれになるので、人によっては貧祖極まりないのもいる。

 

まあこれは、マッチョ好きな自分の個人的な意見ではあるのですが。